街道の賑わいと「煮売屋」の始まり
江戸後期〜:1850年頃創業
馬川亭の歴史の幕開けは、今からおよそ170年前、江戸時代後期(1850年頃)にまで遡る。
創業当時の業態は「煮売屋(にうりや)」。今でこそ静かな田園風景が広がるこの場所だが、当時は国中平野と小佐渡を結ぶ重要な街道筋として、多くの人々が行き交っていた。
店の軒先からは、煮しめや汁物の温かい湯気が立ち上り、道行く旅人や、一日の仕事を終えた地元の男たちの足を止めさせたことだろう。
記録によれば、当時この周辺には同様の店が9軒も軒を連ねていたという。仙道が、古くから交通の要衝として、そして人々が集うエネルギーに満ちた場所であったことの証左である。
馬川亭は創業のその時から、誰かがホッと息をつける、そんな「止まり木」のような場所として歴史を刻み始めたのだ。
【Column】 江戸のファストフード「煮売屋」とは?
「煮売屋(にうりや)」とは、江戸時代に発展した外食産業のスタイルで、現代における大衆食堂や居酒屋の原型とも言える存在です。
その名の通り、里芋や大根の煮しめ、煮豆、焼き魚など、あらかじめ調理して大皿に盛られた惣菜(おかず)を店頭に並べ、酒や飯と共に安価で提供していました。
注文すればすぐに出てくる手軽さは、まさに「江戸のファストフード」。忙しい職人や独身男性、そして街道を行き交う腹を空かせた旅人たちにとって、煮売屋の温かい食事は、何よりのご馳走であり、明日への活力源でした。
馬川亭のルーツは、そんな江戸庶民の胃袋と心を支えた、活気ある食の場にあったのです。
華やかなりし「料亭・置屋」の時代
明治〜昭和初期
明治に入り、目の前の街道が「県道」に指定されると、人の往来はさらに活発化し、馬川亭は大きな転換期を迎えます。それまでの大衆的な煮売屋から、本格的な「料亭」へと発展を遂げたのです。
さらに特筆すべきは、芸妓(げいぎ)が籍を置く「置屋(おきや)」としての機能も併せ持っていたことです。
最盛期には10名ほどの芸妓を抱え、夜ごと三味線の音色や華やかな歓声が絶えなかったといいます。
昭和15年(1940年)発行の雑誌『祖國』には、当時の村長や校長、地元の名士ら約40名が一堂に会し、馬川亭で盛大な晩餐会を開いた記録が残されています。
国中平野を見渡す大広間は、地域の重要な決定がなされ、人々が交流する、まさに「佐渡の迎賓館」とも呼べる華やかな社交場でした。
【Column】 明治のメディアが伝えた「絶景」
明治34年(1901年)に出版された『佐渡名勝』という書物には、当時の馬川亭が出した広告が掲載されています。
「当店は畑野と新穂の中間地点にあり、この上なく静かな環境です。また、国中平野を見渡すことができ、秋晴れの風が清々しい日には、仲興のあぜ道や八幡の方まで広がる稲穂が、まるで波のようにうねる様子を一望できます。その眺めは言葉にできないほどの絶景です。とりわけ、日蓮聖人の配流地として名高い史跡『根本寺』からは、わずか10丁(約1km)ほどの距離です。
佐渡を遊覧される風流な旅行者の皆様、ぜひ一度駕籠を向けてお立ち寄りくださいますよう、伏してお願い申し上げます。」
広告の中で高らかに謳われたその自慢の眺望は、100年以上経った今も変わることなく、馬川亭の窓から訪れる人々を魅了し続けています。
昭和の「茶の間」と、下宿屋の風景
昭和中期〜1980年代
戦後、料亭としての華やかな宴が幕を閉じても、馬川亭の灯が消えることはありませんでした。建物は、地域の人々が日常的に集い、暮らす場所へと役割を変えていったのです。
その象徴が、近隣でいち早く設置された「白黒テレビ」でした。
大晦日ともなれば、近所の人々がこぞって大広間に集まり、紅白歌合戦を見るのが恒例行事でした。かつて芸妓衆が舞った大広間は、村のみんなが笑い合う「地域の茶の間」となっていたのです。
また、広大な建物は「暮らしの場(下宿)」としても活用されました。
1階には美容室が入り、空いた部屋には近所の人や親戚、そして近隣の佐渡農学校(現・佐渡総合高等学校)に通う女子学生たちが暮らしていました。
様々な世代が一つ屋根の下で過ごす。現代でいう「シェアハウス」のような、賑やかで温かい日常がそこにはありました。
【Column】 最後の住人が語る「さよなら」の記憶
2022年のリノベーションオープンからしばらく経ったある日、一人の女性(当時65歳)が馬川亭を訪ねてきてくださいました。
懐かしそうに柱や窓を撫でながら、彼女はふと、こう語り始めました。
「高校生の時、ここに下宿していました。私が一番最後に住んでいたんです」
彼女が高校生活を送っていた1970年代半ば、かつての賑やかな下宿も、時代の変化とともに住人が減り、最後は彼女ひとりになっていたそうです。
1980年頃、彼女が卒業と共にこの家を巣立った日。
それが、馬川亭の「住まい」としての長い歴史が、静かに幕を下ろした瞬間でした。
それから約45年。
「ただいま」と言える場所として馬川亭が蘇ったことを、誰よりも喜んでくれたのは、あの日の最後の住人だったのかもしれません。
そして現代へ:新たな交流拠点として
2022年〜
長い眠りを経て、2022年、馬川亭はシェアスペースを備えた新たな交流拠点として再生しました。
かつて旅人や芸妓、学生たちが集ったこの場所は、今、島内外から訪れる人々が仕事をし、語り合い、新たなアイデアを生み出す場へと進化を遂げています。
リノベーションされた館内には、170年の歴史を刻む雰囲気がそのまま残され、窓からは変わらぬ国中平野の絶景が広がります。
新しさと懐かしさが同居する空間で、再び人々が笑顔で集い、それぞれの物語を紡ぎ始めています。馬川亭の歴史は終わったのではなく、新しい章へとページをめくったのです。
【Column】 80年越しの「ただいま」
オープン直後、ある93歳(当時)のお客様が来店されました。その方は、昭和初期に佐渡で生まれ満州で育ち、10歳で帰国した際、祖父に連れられて馬川亭で食事をした思い出をお持ちでした。
激動の時代、故郷に帰ってきた幼い日に見た景色と、お祖父様との食事の記憶。80年の時を経て、かつての少年は同級生たち3人とこの場所で同窓会を開きました。
時を超え、再び人々が笑顔で集う場所として、馬川亭の新たな歴史が始まっています。
歴史情報の提供のお願い・出典
本ページに掲載している歴史やエピソードは、以下の文献および地域の方々への取材に基づいて構成されています。
記述には万全を期しておりますが、口伝や古い資料に基づく内容も含まれるため、史実と異なる可能性もございます。
「昔の馬川亭や仙道の写真を持っている」「もっと詳しい話を知っている」など、皆様の記憶にある物語をぜひお寄せください。
皆様からいただいた情報を元に、このページをより豊かな「地域の財産」へと育てていきたいと願っております。
参考文献・出典一覧
【文献・資料】
- 『栗野江郷土史(第一巻)農林業篇』/編集:栗野江郷土誌編さん委員会/平成 7(1995)年
- 『栗野江郷土史(第二巻)完結篇』/編集:栗野江郷土誌編さん委員会/令和 元(2019)年
- 『栗野江城ケ平公園整備計画書(桜の名所づくり)』/編集:佐渡一国義民殿・城ケ平保存会/平成 28(2016)年
- 『あゝ、栗の江柿』/編集:土屋重右ェ門/平成 8(1996)年
- 『佐渡市歴史的風致維持向上計画』/編集:佐渡市/平成 22(2010)年
- 『佐渡案内』/編集:佐渡水産組合/明治 41(1908)年
- 『佐渡名勝』/著:岩木拡 発行:佐渡新聞社/明治 34(1901)年
- 『佐渡大寰』/著・発行:池上鋼他郎/昭和 2(1927)年
- 『大日本地名辞書 中巻 二版』/著:吉田東伍/大正 2(1913)年
- 『日本國誌資料叢書 越後・佐渡』/著:太田亮/大正 13(1924)年
- 『佐渡人名辞書』/著:本間周敬/大正 4(1915)年
- 『佐渡郷土文化』/編集:佐渡郷土文化の会/平成 8(1996)年
- 『祖國』(10月号)/発行:祖国社/昭和 15(1940)年
【取材・協力】
- 地域住民の皆様への聞き取り取材
- 馬川亭へご来店のお客様からの情報提供
- 馬川亭 店主による独自調査