「殖栗郷」と東大寺
古代・奈良時代〜
栗野江という地名は、単なる当て字ではありません。そのルーツは、奈良時代(752年)の正倉院文書に見られる「賀茂郡殖栗郷(えぐりごう)」という古い郷名にまで遡ります。 「殖栗」とは、文字通り「栗が増える・繁る」という意味。古代の人々にとって、栗は命を繋ぐ重要な食料源であり、この地が豊かな栗林に覆われた実りの里であったことを示唆しています。
さらに特筆すべきは、当時の栗野江が「東大寺の封戸(ふこ)」であったという史実です。 封戸とは、国家から特定の寺院へ租税(米や産物)を納めるよう指定された特別な地域のこと。つまり、1200年以上昔、この「殖栗郷」の実りは、海を越えて奈良の大仏様(東大寺)を支える糧となっていたのです。 馬川亭のあるこの場所は、古代より都と直結する、佐渡の中でもとりわけ豊かで重要な土地であった歴史を持っています。
【Column】「寝る=くんねへ行く」?
地元では、栗野江のことを親しみを込めて「くんね」と呼ぶ人が多くいます。「クリノエ」が訛ったものですが、実はこの愛称には意外な歴史が隠されています。
かつて栗野江は、畳表や「寝ござ」の原料となる藺草(いぐさ)の一大産地でした。ここのござは非常に質が良く重宝されたため、佐渡の南部などでは、寝ることを「くんねへ行く(栗野江産のござへ行く)」と表現する習慣があったほどです。
「くんね」という響きには、単なる地名の訛りを超え、島の人々の安眠を支えたこの地の「ものづくり」への信頼と、生活の記憶が刻まれています。
平安の雅と、1000年の杜「加茂神社」
平安時代〜:1108年頃起源
集落の境界に屏風を立てたように広がる「加茂林(かもんばやし)」。その深い赤松の森の中に鎮座するのが、栗野江の総鎮守・加茂神社です。
その起源は平安時代、佐渡へ配流された源氏の武将・源義綱(通称:加茂次郎)が、崇敬する都の賀茂大神を祀ったことに遡ります。 隠遁生活を送る彼の姿は里人に「仙人」のように映り、それが「仙道」という地名の由来になったとも言われています。
また、深い森に守られた境内は、豊かな文化を育む舞台でもありました。 裏手に残る能舞台(1845年再建)は、本舞台や橋掛り、鏡の間を備えた本格的な造りで、かつては「国仲四所の御能場」の一つに数えられた、畑野地区唯一の現存舞台です。
現在も毎年8月には、地元の能楽クラブによる「薪能(夜能)」が開催されています。闇に浮かぶ篝火(かがりび)と、静寂の杜に響く謡(うたい)。平安の雅を受け継ぐ幽玄の世界が、今もここで生き続けています。
【Column】神の使い「鶏」の伝説と、大絵馬
加茂神社では古来より「鳥」が使わしめ(神の使い)とされ、境内には鶏にまつわる興味深い遺産が残されています。 一つは、拝殿の柱(木鼻)に施された精巧な「鶏の彫刻」。あまりに見事なため、夜明けに「コケコッコー」と鳴き出したという伝説があり、動き出さないよう釘を打たれた姿が今も残っています。
もう一つは、享和2年(1802年)に奉納された「鶏大絵馬(市指定有形文化財)」です。縦約1メートルもの板に尾長鶏とチャボが描かれたこの絵馬は、佐渡に現存する鶏の絵馬としては最古のもの。かつて氏子の間では鶏や卵を食べることを避ける風習もあったそうで、この地の人々がいかに「神の使い」を大切にしてきたかが偲ばれます。
熱気と幻想の「くんね祭」
中世・近世〜現代
毎年4月15日の加茂神社春祭りは、地元で「くんね祭」と呼ばれ、集落が一年で最も熱気に包まれる日です 。
早朝から勇壮な「鬼太鼓(オンデコ)」が家々を回りますが、ここの鬼太鼓には大きな特徴があります。通常は二匹の鬼が多い佐渡の中で、ここは「白・黒・赤」の三匹の鬼が登場し、さらに二頭の獅子(シシ)が鬼の舞を邪魔しようと絡み合う、物語性の高い舞が披露されるのです 。
祭りのクライマックスは夕暮れ時の「唐崎(からさき)めぐり」です 。神輿(みこし)、鬼太鼓、着飾った神馬(しんめ)、そして古式ゆかしい楽を奏でる「サガリハ」の行列が、薄暗がりの中を渡御します 。
松林の中を提灯の灯りが揺れ、太鼓と笛の音が響く幻想的な光景は、まさに神と人が一体となって遊ぶ、一夜の夢のような時間を紡ぎ出します 。
【Column】 祭りの主役は「お稚児さん」
激しい鬼太鼓とは対照的に、祭りに「雅(みやび)」を添えるのが子供たちです。 神輿を先導する「サガリハ」は、化粧をして裃(かみしも)をつけた少年たちが、優雅な笛の音に合わせて小太鼓を打つ民俗芸能です 。
そして、祭りの主役とも言えるのが「射手(イテ)」と呼ばれる10歳以下の少年です 。華やかな振袖と袴に身を包み、厚化粧をしたその姿は、生き神様のような愛らしさと神聖さを放ちます 。
かつては祭りの数日前から親元を離れて精進潔斎を行い、流鏑馬(やぶさめ)の儀式を執り行うという重要な役割を、小さな体で担っていたのです 。
将軍家も知る幻の「栗野江柿」
江戸時代中期〜:享保年間
栗野江は、古くから知る人ぞ知る「柿の里」です。
その歴史は深く、徳川吉宗(8代将軍)が治めた享保年間の記録には、すでに佐渡の産物として「栗野江柿」名が記されています。地元で「クンネガキ」と愛着を込めて呼ばれるこの柿は、四角く溝のある形と、伝統的な「湯ざわし」による、とろけるような甘露な味わいが特徴です。
昭和以降、種のない「八珍柿(おけさ柿)」の台頭により一度は姿を消しかけましたが、不思議な縁と言うべきか、佐渡最古とされる「八珍柿」の原木もまた、この栗野江集落に現存しています。
新旧の銘木が共存するこの地は、佐渡の柿文化の変遷を静かに見守り続けてきた、まさに「柿の聖地」なのです。
【Column】守り抜かれた「保存木」
「一本でも多くの歴史を残したい」。私たち馬川亭も「処分される栗野江柿の古木がある」と聞きつけ、馬川亭の中庭への移植に挑みました。
しかし、「桃栗三年柿八年」。懸命な手入れも虚しく枯らしてしまった苦い経験があります。老木の命を繋ぐことの難しさを、身を持って知りました。
しかし、集落の一角にはしっかりと里人の心が根付いています。郷(ごう)地区の民家前庭には、「栗の江柿の保存木」が青々と葉を広げています 。 その傍らには、
「八珍の柿の甘さに馴れあきて 不図(ふと)なつかしき栗之江の味」
と刻まれた石碑も建っています 。この保存木と石碑に込められた思いは、確かに未来へと受け継がれていきます。
佐渡のヒーロー「義民」の聖地
江戸時代後期〜:明和年間
栗野江の集落を見下ろす標高150mの丘「城が平(じょうがだいら)」。 ここには、江戸時代(明和年間)に重税に苦しむ農民を救うため、死罪を覚悟で幕府へ直訴し、散っていった義民たちが祀られています。
その中心人物の一人が、憲盛法印(けんせいほういん) という僧侶でした。彼は農民たちの窮状を見るに見かね、自らの筆で命がけの訴状を書き上げました。捕らえられ、処刑されるその時まで、彼は全ての罪を一身に背負い、農民たちをかばい続けたと伝えられています。
彼らの犠牲の上に、今の豊かな田園風景がある。その感謝の祈りは、170年経った今も絶えることがありません。
【Column】雨乞いの竜神と「耳のある白蛇」
城が平は、知る人ぞ知るパワースポットでもあります。
城郭内の木々に囲まれた窪みには、夏でも決して枯れることのない不思議な井戸があり、通称「竜神井戸」と呼ばれています。
古くから水の神様として崇められ、昭和50年代頃までは、日照りが続くとここで藁(わら)を焚いて雨を願う「千把焚き(せんばだき)」という雨乞いの儀式が行われていました。
また、この場所では古くから「耳のついた白い蛇」を見たという神秘的な言い伝えも残っています。
薬師信仰と薬草の里「湯の沢」
中世・近世〜
栗野江には、その名の通り「湯の沢」と呼ばれる場所があります。 かつては菜っ葉が茹でられるほどの熱湯が湧き、江戸初期には「湯の役(温泉税)」を納めていた由緒ある湯治場でした。この豊かな源泉は、後の「仙道温泉」や「畑野温泉」のルーツでもあります 。
また、この天然の恵みは信仰とも深く結びついています。この地にある瑠璃山普門院の本尊は、病気を治す仏様「薬師如来」 。温泉あるところに薬師あり。人々は湯の効能を仏の力として崇め、心身の癒やしを求めてきました。
こうした風土は、独自の実践的な医療文化をも育みました。旧家には薬草を粉にする薬研(やげん)が多く残され、明治中期には村内の土屋主平氏が源泉を用いた「官許・ひぜん湯治薬」を販売していた記録もあります 。
栗野江は、祈りと実践の両面から人々の健康を支える「医薬の里」だったのです。
【Column】将軍家の「朝鮮人参」と、山の薬箱
この地が薬草に詳しかったことを示す象徴的な出来事が、江戸時代の「朝鮮人参」栽培です。
享保8年(1723年)、将軍徳川吉宗の命により、佐渡奉行所が栽培地として選んだ3ヶ所の一つが栗野江でした 。 江戸から運ばれた苗木2本はわずか7年で途絶えてしまいましたが、国策プロジェクトに選ばれた背景には、豊かな植生と村人の深い知識がありました。
周辺の山系には、鎮痛作用のあるレイジンソウや、風邪に効くウスバサイシン、打撲に良いニハトコなど、多種多様な薬草が自生しています。
豊かな「自然の薬箱」に囲まれた環境こそが、栗野江の医薬の知恵を育んだ源泉なのです。
「佐渡農」の記憶と、若き「共創」の熱気
近代〜現代:1910年創立
明治43年(1910年)の創立以来、「佐渡農(さどのう)」の名で親しまれ、佐渡の農業振興を担ってきた伝統校です 。平成13年に「佐渡総合高等学校」へ改組されてからも、地域探究の精神は受け継がれています 。
特に2021年からは、生徒たちが馬川亭の再生プロジェクトにゼロから参画。 その関わりは、解体や塗装といった「空間づくり」に始まり、2022年7月の開業以降はメニュー開発、そしてカフェ営業やタコス屋営業の「実店舗経営」へと年々深化しています。
生徒たちの汗とアイデアが染み込んだここは、単なる実習の場を超えた、若き情熱と挑戦の拠点でもあるのです。
【Column】下宿屋から、「青春の特等席」へ
かつて仙道の料亭街は、学校の頼もしい後援者でした。
総合高校の三種の神器「九谷焼の大花瓶」は向かいの料亭「松月亭」が寄贈したものであり、馬川亭を含む廃業後の各料亭は遠方から通う女子生徒の「下宿屋」として、親代わりとなって子供たちの成長を見守りました。
そして今、馬川亭は再び高校生たちの「居場所」となっています。放課後、生徒たちがふらりと立ち寄り、おしゃべりに花を咲かせたり、テスト勉強に励んだり。
時代は変わっても、ここは若者たちが安心して羽を休め、青春の時間を過ごす「思い出の地」であり続けたいと思っています。
歴史情報の提供のお願い・出典
本ページに掲載している歴史やエピソードは、以下の文献および地域の方々への取材に基づいて構成されています。
記述には万全を期しておりますが、口伝や古い資料に基づく内容も含まれるため、史実と異なる可能性もございます。
「昔の馬川亭や仙道の写真を持っている」「もっと詳しい話を知っている」など、皆様の記憶にある物語をぜひお寄せください。
皆様からいただいた情報を元に、このページをより豊かな「地域の財産」へと育てていきたいと願っております。
参考文献・出典一覧
【文献・資料】
- 『栗野江郷土史(第一巻)農林業篇』/編集:栗野江郷土誌編さん委員会/平成 7(1995)年
- 『栗野江郷土史(第二巻)完結篇』/編集:栗野江郷土誌編さん委員会/令和 元(2019)年
- 『栗野江城ケ平公園整備計画書(桜の名所づくり)』/編集:佐渡一国義民殿・城ケ平保存会/平成 28(2016)年
- 『あゝ、栗の江柿』/編集:土屋重右ェ門/平成 8(1996)年
- 『佐渡市歴史的風致維持向上計画』/編集:佐渡市/平成 22(2010)年
- 『佐渡案内』/編集:佐渡水産組合/明治 41(1908)年
- 『佐渡名勝』/著:岩木拡 発行:佐渡新聞社/明治 34(1901)年
- 『佐渡大寰』/著・発行:池上鋼他郎/昭和 2(1927)年
- 『大日本地名辞書 中巻 二版』/著:吉田東伍/大正 2(1913)年
- 『日本國誌資料叢書 越後・佐渡』/著:太田亮/大正 13(1924)年
- 『佐渡人名辞書』/著:本間周敬/大正 4(1915)年
- 『佐渡郷土文化』/編集:佐渡郷土文化の会/平成 8(1996)年
- 『祖國』(10月号)/発行:祖国社/昭和 15(1940)年
【取材・協力】
- 地域住民の皆様への聞き取り取材
- 馬川亭へご来店のお客様からの情報提供
- 馬川亭 店主による独自調査