国家プロジェクト「牧」と牛馬
奈良・平安時代
古代の佐渡は、農業だけでなく畜産においても国家の重要拠点でした。
平安時代の法令集『延喜式』には、佐渡に「勅旨牧(ちょくしまき)」と呼ばれる天皇直轄の牧場が置かれていたことが記されています。佐渡の広大な野原や丘陵地を利用し、都の儀式や軍事に使われる優秀な牛や馬を育てる国家プロジェクトが行われていたのです。
「朱鷺(トキ)」が舞う田園風景は有名ですが、かつてはそののどかな風景の中を、朝廷のために育てられた駿馬たちが駆け回っていた時代がありました。
この地は古くから、都の威信を支える最高品質の「生命」を育む場所だったのです。
【Column】農耕から牧畜、そしてふたたび稲作へ
かつて牧場だった場所の多くは、後の時代に開発され、現在の美しい棚田や水田へと姿を変えました。
しかし、「駒(こま)」や「馬」のつく地名、あるいは牛馬の安全を祈る神社の伝承の中には、往時の記憶が今も色濃く残されています。
美味しいお米が育つ佐渡の土壌には、稲作の歴史だけでなく、馬たちが駆け、牛たちが草を食んだ、悠久の時間の積み重ねが刻まれているのです。
都の食膳を支えた「御食国」の誇り
平安時代〜
やがて佐渡の海産物は、「地元の食料」から「天皇や貴族への貢納品」としての性格を強めていきます。
律令時代、佐渡は皇室や朝廷に海水産物を献上する「御食国(みけつくに)」としての役割を担っていました。『延喜式』には、佐渡から都へ送るべき品として、アワビ、イカ、海藻などが指定されています。
冷蔵技術のない時代、佐渡の人々は高度な「干物・塩蔵」技術を磨き上げ、長旅に耐えうる極上の保存食として都へ届けました。
馬川亭を通じてご紹介する佐渡の産品には、1000年以上続く「都が認めたブランド」の技術と誇りが、脈々と受け継がれているのです。
【Column】平城京から出土した「佐渡の荷札」
奈良の平城京跡からは、「佐渡国...あわび」と墨で書かれた木簡(当時の荷札)が出土しています。これは、はるか日本海を越え、陸路を旅して、佐渡の珍味が確かに都へ届いていた動かぬ証拠です。
遠く離れた奈良の都で、貴族たちが「これは佐渡から届いたアワビか」と言いながら宴を楽しんでいた様子が目に浮かびます。私たちが今、島の外へお届けする品々にも、かつての木簡と同じように、作り手の想いと島の風土が込められています。
流人が作った「教養あふれる流刑地」
鎌倉・室町時代
中世に入ると、佐渡は順徳天皇、日蓮聖人、世阿弥といった、時の政権に敗れた重要人物が流される地となりました。
しかし、彼らは単に隔離されたのではありません。都の最先端の知性や文化を島民に伝え、定着させたのです。
例えば、能の大成者・世阿弥は、配流中も創作意欲を失わず、佐渡での体験を『金島書(きんとうしょ)』に記しました。また、順徳上皇が過ごした「黒木御所」跡からは、質素ながらも庭園を配した雅な暮らしぶりが偲ばれます。
彼らが持ち込んだ「教養」や「美意識」は、島民の精神性に深く浸透し、農民が農作業の合間に能を舞い、謡(うたい)を口ずさむという、世界でも稀な「文化的な農村」の礎を築きました。
【Column】 大陸からの使者:渤海使の来着
流人だけでなく、佐渡は海外との玄関口でもありました。
奈良時代の天平勝宝4年(752年)、中国東北部にあった「渤海(ぼっかい)」という国からの使節団が、佐渡に到着したという記録が残っています。当時の佐渡には「松原客館」という迎賓館が設けられ、都へ向かう外国使節をもてなしました。
馬川亭が目指す「交流の場」としての役割は、1200年以上前からこの島に脈々と受け継がれているDNAなのかもしれません。
黄金の島、そして「国中」の街道
安土桃山・江戸時代
戦国末期、相川での金銀山発見により、佐渡は徳川幕府の「天領(直轄地)」となり、日本の経済地図の中心へと躍り出ました。
ゴールドラッシュに沸く相川には、全国から技術者や商人が集まり、人口は5万人を超え、江戸・大坂に次ぐ巨大都市へと成長します。
この時、栗野江を含む「国中(くになか)平野」は、島の経済を底支えする重要な役割を担いました。
港から相川へ向かう「文化・情報のルート」と、平野から相川へ向かう「食のルート」。
この二つが交差する交通の要衝として、人や物資が絶えず行き交う大動脈となっていたのです。
【Column】黄金精錬を支えた「森のエネルギー」
金銀の島・佐渡を支えていたのは「食」だけではありません。
鉱石から金を溶かし出す製錬工程には、大量の燃料が必要でした。 栗野江の山林からも、多くの薪が切り出され、炭に焼かれて相川へと運ばれました。本業の炭焼き職人でなくとも、多くの農民がこの作業に関わり、島の産業を支えていた記録が残っています。
華やかな黄金の輝きは、この地の森と人々の地道な労働というエネルギーによって支えられていたのです。
筆と鍬(くわ)を持つ人々
江戸時代後期・明治時代
佐渡の歴史において特筆すべきは、農民や町人といった一般庶民が、プロ顔負けの高い技術と教養を持っていたことです。
仙道の旦那衆が文芸を楽しんだように、この国中平野周辺からは、家業の傍らで和歌、漢詩、そして「工芸」を極めた人物が多く輩出されています。彼らは京都や江戸の大家に師事し、時には島外へ遊学して最新の知識を持ち帰りました。
農作業の手を休め、筆を取り、あるいは槌(つち)を振るう。佐渡の文化の厚みは、特権階級だけでなく、こうした「知的好奇心旺盛な生活者たち」によって作られてきたのです。
【Column】名工・本間琢斎と「佐渡の銅器」
佐渡の文化水準の高さを物語る人物の一人に、この地域にゆかりのある鋳金家・本間琢斎(ほんまたくさい)がいます。
彼は文政年間、佐渡奉行の命により大砲鋳造の技術を研究しましたが、明治に入るとその技術を芸術へと昇華させ、「斑紫銅(はんしどう)」という独特の着色技法を確立しました。その作品は万国博覧会でも賞賛され、佐渡銅器の名を世界に知らしめました。
武器を作る技術を、美を生み出す技術へ。その平和で創造的な転換は、佐渡の人々が持つ「たくましさ」と「美意識」の象徴と言えるかもしれません。
歴史情報の提供のお願い・出典
本ページに掲載している歴史やエピソードは、以下の文献および地域の方々への取材に基づいて構成されています。
記述には万全を期しておりますが、口伝や古い資料に基づく内容も含まれるため、史実と異なる可能性もございます。
「昔の馬川亭や仙道の写真を持っている」「もっと詳しい話を知っている」など、皆様の記憶にある物語をぜひお寄せください。
皆様からいただいた情報を元に、このページをより豊かな「地域の財産」へと育てていきたいと願っております。
参考文献・出典一覧
【文献・資料】
- 『栗野江郷土史(第一巻)農林業篇』/編集:栗野江郷土誌編さん委員会/平成 7(1995)年
- 『栗野江郷土史(第二巻)完結篇』/編集:栗野江郷土誌編さん委員会/令和 元(2019)年
- 『栗野江城ケ平公園整備計画書(桜の名所づくり)』/編集:佐渡一国義民殿・城ケ平保存会/平成 28(2016)年
- 『あゝ、栗の江柿』/編集:土屋重右ェ門/平成 8(1996)年
- 『佐渡市歴史的風致維持向上計画』/編集:佐渡市/平成 22(2010)年
- 『佐渡案内』/編集:佐渡水産組合/明治 41(1908)年
- 『佐渡名勝』/著:岩木拡 発行:佐渡新聞社/明治 34(1901)年
- 『佐渡大寰』/著・発行:池上鋼他郎/昭和 2(1927)年
- 『大日本地名辞書 中巻 二版』/著:吉田東伍/大正 2(1913)年
- 『日本國誌資料叢書 越後・佐渡』/著:太田亮/大正 13(1924)年
- 『佐渡人名辞書』/著:本間周敬/大正 4(1915)年
- 『佐渡郷土文化』/編集:佐渡郷土文化の会/平成 8(1996)年
- 『祖國』(10月号)/発行:祖国社/昭和 15(1940)年
【取材・協力】
- 地域住民の皆様への聞き取り取材
- 馬川亭へご来店のお客様からの情報提供
- 馬川亭 店主による独自調査